ずっと なんとはなしに考えていることがある。
「自分はなぜピアノを弾きたいのか」
んー、正確には 「なぜやめられないのか」 だね。
別にいいじゃん、そんなこと。 そう思うでしょう。
その通りです。 別に そんなこと考えなくても
仕事は出来るし、 誰も困らない。
でもね、本人にとっては、今朝起きた瞬間はハッキリ憶えてたのに
起きてしばらくしたら すっかり忘れちゃって思い出せない夢みたいに、
なんとなく雰囲気だけは おぼろげにイメージできるのに
やっぱりどうしてもストーリーを思い出せなくて
モヤモヤしたままの夢の記憶みたいに、
気持ち悪いのだ。
きっと、 好きなのかもしれない。
でも、 過去にピアノが好きで好きでどうしようもなくなったことは無い。
ピアノ曲のレコードを 擦り切れるほど むさぼるように
子供時代に聴いた わけでもない。
中学時代までは とにかく練習は嫌いだったし、
親は 目が合えば 「練習しろ」「練習しろ」 とうるさかったから余計だ。
そもそも 私にはピアノのお稽古を始めた日の記憶が無い。
気がついたらピアノを習っていた。 6歳だそうだ。
6歳にもなって覚えていないというのには、 よほどピアノに興味が湧かなかったのか、
すでに脳の発育に問題があったか、 どちらかだろう。
高校生になったときに、 自分が練習している曲を クラスの友達が弾いているのを聴いて 驚いたのを憶えている。
同じ曲なのに ぜんぜん違う曲のように聴こえたからだ。
音色、タッチ、間、細かいトリルのつけ方、タイミング、抑揚のつけ方、メロディーの歌い方、ダイナミズムの強弱・・・・・
演奏者によって こんなにも変わるものなのだと 知ったときの衝撃は大きかった。
同じ情報をインプットしたのに、 出てきたものは 十人十色、ひとそれぞれ。
こりゃあ 面白い!
と、 はじめてピアノに夢中になった。 これは自覚がある。
だが、大学を卒業し 就職をし、 退職をして もういちどピアノを弾きたいなぁ
と思って いろいろあってジャズを始めたとき、
プロになるつもりも無かったのに、 いつまで経っても何も弾けず
レッスンに通うのも辛かったのに やめようとは思わなかったのだ。
続けなきゃいけない理由は 何も無かったはずなのに。
一人暮らしで、 貧乏で、 レッスン代を捻出するにも一苦労で、 なのに個人レッスンだから
一緒にバンドを組んでくれる仲間もいなくて、 凹み始めたらブレーキ利かなくて
それでも やめなかったんだよなぁ。 なんでだろう。
これは ずっと私の胸に 溶けないトゲとして引っかかったままだった。
ずっとずっと、 ごく最近まで そうだった。
なのに。
わかってしまった。
つまらないほど、 あっさりと。
ある作家のエッセイを読んでいたら、 こう書いてあった。
“ぼくが小説を書くのは、 自己治癒みたいなものなんです。”
そうだったのだ。 私も、 自己治癒としてピアノを弾いていたのだ。
幼い頃から母親に、 「お前はできない子だ」と言われて育ってきた。
ある程度、 誰にでも そういう経験はあるだろう。 だが、 365日ほぼ毎日のように言われて育つと
だんだん自分でもそんな気がしてくるもので、 不思議と反抗心を憶えなかった。
そうか、 私は 「できない」 のか。
物心ついた頃には おそらく、 すっかり 「私はできないんだ」というコンプレックスが、
ある種のマインドコントロールによって 私の性格にまで入り込んでいたのだと思う。
そのために、 「自分はピアノが弾けて初めて クラスの友達と同等の人間になれるのだ」 という
屈折した常識が 頭を巣食うことになる。 とうぜん無意識にである。
無意識だったから、 その本を読む ごくごく最近まで 気がつかなかった。
どんなに辛くてもピアノを続けること自体が、 私が人として誰かと向き合う際に
必要不可欠なことだったのだ。
止めたら半人前になってしまう。 いわば、無意識の軽い強迫観念のようなものなのだろう。
わかってしまってからは、 すべてが点として浮遊していた記憶が 一本の線として繋がった。
なんとも疲れる人生を送ってきたものだ。
だけど、 今では おもいのほかスッキリして、 なーんだそうだったのか と、
意外に気持ちが晴れて行く感じがしている。
どんなことでも、 わからないよりは わかった方がいいのである。
これからは 自分を癒すために ピアノを弾いていこう。
こんなヘンテコなミュージシャンは あまりいないとは思うけれど。