理想のひと
私が学生時代にさんざんお世話になった
クラシックピアノの師匠は、
なんと大正15年生まれの84歳で、現役のピアノ教師です。
大学を卒業して数年経ったころから、
毎年一回先生のお宅に、門下生の友達と集まるのが
恒例行事となっている。
まだまだお元気で、というより、学生時代から
ほとんどお変わりないのは、外見だけでなく、音楽に対する
深い愛情と探究心のほう。
お独り暮らしの先生は、80歳を過ぎてなお、今だにレッスン生をとり続け、
新築した家の、完全防音のレッスン室に
超かっこいいオーディオセットとベートーヴェン全集を購入。
「毎日少しずつ聴くのが楽しみなのよ」
記憶力も抜群で、おびただしい数の門下生の、
音高受験・音大受験で弾いた曲や、
高校何年のときの試験曲、大学何年のときの試験曲など、
いちいちをすべて記憶しちゃっている、恐るべき脳の持ち主なのだ。
生徒の方がすっかり忘れているような事まで、
言い当ててしまうのだから、ビックリする。
実際に、私の結婚パーティーに来てくださったときも、スピーチで
私自身がすでに忘れていた、大学の卒業試験の曲を決めたときの
エピソードとか、試験当日、私の先生は試験官でいらしたので、
ほかの試験官の先生たちが話していた私の演奏の講評とか、
結果とか、学内の演奏会に出たこととか、
そういったことを本当に細かく覚えていらして、話してくださった。
今年にいたっては、野球とサッカー観戦に熱中し、
いまハマッているのが、「数独」だという。
私なんか先生から教えてもらうまで、数独がいったい何なのか
まったく知らなかった。
みなさんはご存知でしょうが、数独とは、ルールに従って全てのマスを
数字で埋めて行くパズルで、初級から上級まであり、
3×3のマスが9つくっついた81個ものマスをすべて、ルールのもと、
数字のみで埋めて行く難問もある。
想像しただけでジンマシンの出るゲームである。
それにハマッている84歳の私の師匠・・・
ほんとうに充実した忙しい毎日を送っていらっしゃる。
頭の下がる思いだ。
いくつになっても好奇心を失わず、
音楽に対する愛情は溢れんばかりで、
生徒のレッスンは、一人一人の適正を見極めて厳しく、優しく、
すべてに真摯な姿勢で生きてこられた先生の人生は、
その穏やかな外見からは想像できないほど、実は大変なものでした。
まず戦争体験者だしね。
あの時代に、ピアノを大八車に載せて押しながら疎開した話とか、
芥川也寸志さんが芸大時代の同期だったとか、
團伊玖磨さんが一年先輩だったとか、
ほかにも黛敏郎さんや近衛秀麿なんてほぼ歴史上の人物的な
名前まで出てきたりして、先生のお話は
日本の近代クラシック音楽界の歴史、ひいては昭和史を
そのまま聴いているようで、リアルな興味深いものなのです。
この時代の女性特有の品の良さと達筆な筆遣い。
どんなに頑張っても、とても師匠のように優れた、あらゆる面で
理想的なひとになるのは困難なことだと思う。
来年は、爪のアカをお土産にいただくとしよう。